魚が木に登ることは、努力じゃどうにもならないけど、ほとんどの人にとって、受験程度の勉強は、努力すればなんとかなること
この点で画像と現実は違っている
だからバカだと思いながら過ごすような人は、努力を知らない人だろうし、努力を知らない人には、たとえ才能があっても上手く使えないと思う
FF外から失礼します
確かに社会変えるより自分変えた方が早いですよね…
社会変える労力と自分変える労力なら社会変えたことないから分からないけど自分変える労力の方が少ないでしょうね
も一つクソリプすると
「おたくのお子さん魚なんで海で泳がれたらいかがですか?」
と提案すると
「うちの子が木に登られへんていうんか!それを出来る様にするんが教師やろ!親はなんもせえへんけどな」
と言われる現場。
スポーツや芸術で非凡な才能持ってる子は学校に縛られず努力次第で実績をあげて高く評価されていたりする。
反対に非凡な才能を持たない俺たちからしたら読み書き算数から常識までバランスよく教えてくれて、大学・就職まで導いてくれる現行の教育システムは大変ありがたいものだと思うけどなぁ。
生まれつき非凡な才能を持っていてそれを開花させて活躍したい人もいるのは確かだろうけど、現実には常識的な枠内で事故なく生きていきたい凡人の方が大半なわけで…。教育システムをどちらに合わせるべきかといったら後者だろうなぁ…特段才能がなくても生きていけるようにしてあげる教育が大事。
分からないでも無いですが
何が自分に向いてるか判断できるようになる為にも今みたいな義務教育は必要な気がします
良い指導者はいますが結局責任を取ってあげることは出来ない
結局は探し、決めるのは自分だと思います。
自分もそんなふうに思えました。
「あれ?俺ペンギンだと思ってたけど意外と木登りできるな!」みたいな経験があったので…。
木登りが社会で役に立ったか?と言われたらNO!かもしれないけど、「やってみたら出来るようになるかも」と思える体験が行動・挑戦を後押ししてくれる。
跳ねて木に張り付いて水槽に戻った魚と、木を倒して上に乗っただけの像と、自分の得意分野なだけに自分の登るという考え以外を認めない猿…
まで見えたw
虎の親が子供に狩りや生き方を教えるように、人間が人間に課してる基礎教養が義務教育で、それ以降は好きに生きることになります。
やりたいことによって求められてる事も変わるし、木登りを求める仕事もあれば、泳ぎの能力を求められることもある。だから割と今はいい時代な気がします。
建築系サラリーマン
ここで大事なのは、サカナは必死で努力しても絶対に木に登ることは出来ないことです客観的に見ると分かりますが、サカナ自身は気づいていない先生はサカナに川に行きなさいとアドバイスすることが、あるべき教育のありかたですね
Source: イケイケ速報